ほんのちょっと怖い話シリーズ 『海鳴り』

「変わったね」
僕は海を背にして立っている女に語りかけた。
僕達は向き合って立っている。
ずっと昔、僕達がまだ平和で疑いもなく幸せだった頃
―そして彼女が病的な要素を微塵も含んでいなかった頃―、
よく訪れた海岸だ。
まだ海水浴の季節には早いからだろう、夕暮れの海岸には僕達の他に少数の人影しか
見ることはできなかった。
犬の散歩をしている人や砂浜をジョギングしている人やなんやかんやだ。
「そうかしら?」
彼女は少しだけ首を傾げて眩しそうな目で僕を視た。
長くて艶のある黒髪が揺れた。
昔よく見せた僕の好きな仕草だった。
僕の鼓動がノスタルジィに刺激されて少しだけ高鳴った。
彼女と会うのは五年振りのことになる。

五年前、僕達はお互いをどうしようもないほど傷付けて、罵って別れた。
二人とも精神的にも肉体的にも決定的な傷を負った。
僕の右手の甲には5pほどの傷が付いているが、それは救いようもない言い争いの末に
彼女が錯乱して工作用の鋏を振り上げた結果だ。
彼女の足の裏にも火傷の跡がある。
口論の末に僕が投げ付けたマールボロを彼女は素足で踏み付けたのだ。
じゅっ、という嫌な音と皮膚が焼ける不愉快な匂いが部屋に漂ったことを今でもはっきりと憶えている。
彼女が中絶手術をした次の日の出来事だ。
雪に変わりそうで変わらない、そんな冷たい雨の降った冬の日だ。
今になって思うと僕は彼女の体内にまで傷を遺してしまった事になる。
彼女はその時、心に病を抱えていた。
他人との距離を上手く取れないことにコンプレックスを抱いていた。
やがてそれは対人恐怖症という形になって彼女を更に苦しめた。
僕も大学を辞めて仕事についたばかりで精神は休むことなく興奮し、緊張していた。
余裕がなかったのだ、つまりは。
僕達は求めるものの違いから常にそのようなことを延々と繰り返していた。
それは彼女が僕の前から忽然と消えるまで続いた。
そう彼女が何も言わずに僕の前から消えるまで……。

あれから五年が過ぎた。
その間僕は仕事を二度程変えた。
引越しも一度した。
新しい恋人と暮らすために部屋を変えたのだ。
その間、彼女の噂は殆ど聞かなかった。
元々、友達はいないに等しいほど少なかったものだから、
彼女の行方を気にする者など当然いなかった。
僕もやっと開放された気分に浮かれていたのでさして彼女のことは気に掛けなかった。
気にしないようにしていた、というのが正しいだろう。
寧ろ進んで忘れようとしていた。
雑多な切捨て可能の思い出と同様にそれは安易なことだ。
実際彼女のことは忘れていた。

突然、僕の元に手紙が来るまでは。

二週間ほど前だった。
僕は今の恋人ととつまらない喧嘩をしていて、彼女は暫く実家に帰っていた。
家でゴロゴロしていると、郵便配達夫が「速達です」と僕のアパートのドアを叩いた。

ヘルメットを目深に被り、その奥から僕を品定めするように見ていた郵便配達夫は捺印を要求し、
僕は素直に従った。
何処にでもある、白い封筒だった。
滲んだ宛名は確かに僕で、裏を返してみたが差出人の名は
僕の宛名以上に滲んでいて判読は不可能だった。
鋏―彼女が僕を刺した鋏だ―で封筒を開けた。
その字体を見てはっとした。
色々なことが僕の中で瞬時に甦った。
まるで記憶喪失の人間が瞬時にして記憶を取り戻したかのように、
すべての出来事が鮮やかな色を帯びて再び動き出した。
鋏にさえ鮮血が付いているような気がした。
記憶の中のタブーの箱が開いた。
僕にとってのパンドラの匣。
その中にあった物が記憶中に広がり蔓延し嫌な気持ちになった。

彼女は何も言わずに、波打ち際に立っている。
波が白い泡を残して遠ざかり、また彼女の足許に戻ってくる。

「変わったのは髪の長さだけよ」
突然彼女が言った。自分の髪を一房掴み指で梳いた。
「あの頃はいつも短くしていたから。中身は何も変わってはいないわ」
僕の眼をまっすぐに見詰めていた。
その眼には何も映っていないように見える。
彼女は何を視ている?
僕を通り越した先に何を視ている?
何も変わっていない、と彼女は言うがその中には僕への気持ちも含まれているのだろうか?
僕への気持ちもあの日のままなのか?
それともその気持ちは復讐や憎しみに形を変えて持続しているのか?
そう思ったけれど聞けなかった。

「伸びたね、髪」
「そうね。そうなのよ。全く何故かしらね?」
一瞬、強い風が吹いて彼女の長い髪がざわっと揺れ、彼女の顔を覆い隠した。
その隙間から僕を視ていた。
「な、何故って髪は伸びるものだろう?切らない限りは」
その視線に多少、たじろいだが僕は言った。声は擦れて咽喉は渇いていた。
上手く喋ることが困難なほどに。
言いようのない悪寒を感じた。
潮風にあたった所為で身体が冷えたのだろう、きっと。
「貴方のそういう煮え切らないところが嫌いなのよ」
彼女はそう言って億劫そうに顔にかかった髪を払った。
彼女の口調と視線は五年前のような好戦的なものになっていた。
挑発するような、嘲るような、何かを懇願するような。
今の彼女の眼には先程までなかった表情という物が如実に表れている。
それは、僕を……、
僕を……。
「髪は伸びる」
彼女が確かめるように呟いた。
「そ、そういうものさ」

「でもね……」
また風が吹いた。
充分に水気を含んだ、身体に纏わりつく様な不快な粘着性のある風だった。
ああ、雨が来るかもしれないなと僕は思っていた。

ざわ。
彼女の髪が揺れた。
「この髪はねぇ、不思議なことに切っても切ってもすぐに伸びてくるのよ」

ざわ。
また彼女の髪が激しく揺れた。

「切っても切ってもすぐにね」
彼女は濡れた様な艶を放つ黒髪の間から僕を視ている。
複雑な感情の集合体ともいえるような眼で僕を視ている。

ざわざわ。
更に強い風が吹いた。
その風は僕の身体を誘い込むように撫でてから海上で消える。

雲が早いスピードで右から左へ移動している。
やはり、雨になりそうだ……。
傘を持って来れば良かったな。
彼女の髪がするすると伸びて彼女自身を包み込む。
まるで黒いワンピースか何かを纏っているように。
どこかで赤ん坊の泣き声が聞こえたような気がしたが、それは海鳴りだろう。

「どこか場所を移そう。雨が降りそうだよ」
僕がそう言うと彼女は悲しげに首を振った。
「ここでいいわ。ここにいたいの」

ざわざわざわ。
海鳴りが五月蝿い。
僕の悪寒は益々強くなっていた。

「君の髪は伸びる」
何処かで誰かが言ったように聞こえたがそれは僕の口から出た僕の声だった。
急速に此処から遠ざかって何処かに向かっているような感覚を憶える。
僕は意識をきちんと持ってここにいるよう努力しなければならなかった。

「そう留まることを知らずにね」
黒髪に包まれた彼女は言った。
「何故でしょう?」
まるで謎々を出している子供のように無邪気に言って笑った。
ヒステリックな笑い声だった。
あの頃と同じだ。

「ぼ、僕にはわからないよ。わかる筈がないじゃないか!?」
僕は混乱してそう吐き捨てた。

ざわざわ。
ざわざわ。

海鳴りが耳について離れない。
彼女の嗤う声も。
とても苛つく、心が落ち着かない。

「そうね、貴方にはわからない」
彼女は静かに言った。もう嗤ってはいなかった。

「でもわたしはわかったの。わかったのよ!!」

ざわざわざわ。
ざわざわざわ。
黒髪が彼女を包んでいく。

「この髪が伸び続けている理由がね」
「おい!!」
彼女は艶かしく光る黒い塊になっていた。
僕は後退さろうとしたが足が思うように動かない。
何かに纏わりつかれている様に。
それは何かじゃない。

彼女の髪だ!!

「もう貴方にもわかったでしょう」
黒い異形が僕に近付く。
「わかった筈だわ!」

ざわざわざわ。
ざわざわざわ。

「そしてこの髪はもう伸びることはないの」

ざわざわざわ。
ざわざわざわ。

やめろ!!
来るな!!

それは声になることのない叫びだった。

ざわざわざわ。
ざわざわざわ。

ざわざわざわ。
ざわざわざわ。

―了―

-2001年8月31日-

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生意気にもあとがきのようなもの
 別に心霊物のお話が好きというわけじゃないんです。
 むしろそんなものは信じていない方です。
 妖怪は大好きですが。

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